奈良の明日香村とか大阪の四天王寺のあたりとか、ご縁あるいは繋がりを感じる場所で、
それは昔のこの国の記憶のある地域でもありますが、そういった頃の気配、記憶?というか、あるいは情報に触れるのが好きなところはあります。
海外でも、懐かしさ、嬉しさを感じる場所はありますね。特にアメリカの大地は無条件に好きです。
さて、昔の日本が正式に隋朝と国交を結んだとき、隋の煬帝に文書を送った人物が"多利思比孤(タリシヒコ)"とされています。
で、これは誰なのか。
室町時代あたりからモノ好き達が論争しているようで、九州の実力者だとか、蘇我氏の実力者だとか、あれこれ説があるそうです。
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中国側の国家文書(史書)では、姓がアメ、名がタリシヒコ-アハケミとある。
すると、アメとは天の下(あめのした)を統治する天皇家の関係だろうと。
で、アハケミはオオキミ(大王)のことで、天皇家界隈から"タリシヒコという個人名"の該当者を歴史家たちは探すようです。
彼らの説明を読んで、どうもピント外れだなという印象でした。
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素直に読めば、天照-日子-大王(あまてらす-ひこ-おおきみ)で、天皇家当主の正式名称的に隋の外交当局に説明した言い回しだと思う。
The president of the United States (POTUS)みたいなフォーマル表現でしょう。
あまりに簡単、明白な解釈は、歴史家たちは気づかないのかな。
例えば後代の史書の記録者がMr.Potusが姓なのかも、みたいにあたりをつけて書き残してみたら(笑)、それで後の人は迷路行き、みたいな感じかもしれません🍵。
歴史家たちは、ヒコが男(に決まっている、という前提)なのだから、推古天皇は女帝だという条件にひっかかるようですが、
則天武后も死後に"武后"という名称にしておいてくれと言ったけども在位中(業務期間中)は皇帝という名称ですし、ヒコとは日の子ですから女帝でも職名としてそのまま説明したと思います。
文書に載せる職名を聞かれたわけだから、フォーマル表現で行こうとなるはず。このあたりは役人的に考えてもすぐ分かる(笑)
それとタリシヒコさん役として男性が出てきて、隋の外交官を接待した記録があるから、"タリシヒコ氏"は推古天皇じゃないんだと歴史家は言うらしい。
現代でも事務委任で、あるいは名代で、指定された代理者がその役務を執行するもので、隋に国書を発する当事者の名を天皇にしておくのは言うまでもなく、当然(常識感覚)だと思います。
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当時の日本はもう割とムラもクニも、その関係者は仕事をしていて、落ち着いていたと思う。
明日香村など歩いて事績を訪ねるに、よく海外のことを学び、仏教も深く学んでいたように感覚的に感じますね。
学者の感覚だと、まったくの未開国にちょっと毛が生えた程度なのかもしれないけど…。
話変わって、仏教の経典のナカミ、あるいはその本質なども、言葉遊びで考えてしまうのが、やはり学者さんだなぁと、
彼らの書いた本を読むと、どうしてもそう思います。
一部の学者の考えだと、聖徳太子著の三経義疏などは思想性が高いので、太子の存在も含め、後世のまるまる創作だと言っているらしい。
実際のところは、後世の人間の仏教理解は太子のレベルになかなか追いつかず、各宗の祖師方が熱誠に対話に臨むため、太子由来の地で参籠していますね。
最澄上人と聖徳太子の関わりの前世譚など、あるレベルにおいて真実のように思いもします。
四天王寺には建築業の守護神として、太子の神社がありますが実にパワフルで、今も寺社建築を始めとして、関係者を守護しておられるのがよく分かりました。
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