九月になって、ちょっと雰囲気が変わりましたね。
今日は、普段お世話になっているお寺様に、月初めのご挨拶にゆきました。
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わたしも何といっても自分の経験上からだと思うのですが、他者に癒してもらったり、サポートしてもらう側面より、
自分らしく"自分の足で立つ健やかさを基本にする、自分流儀&製造責任ファースト"で、色々書いております。
セラピーやヒーリング等のシーンを長年見てきて、そこから卒業したことの影響が大きいのですが、
やはり自分の足で人生を歩む自由と軽さは、人生の一番の価値だと思います。
で、先日の記事では、仏教のお坊様、行者様がたのネット発信のなかで、人生問題をプロに任せてしまう人たちがこしらえるあれこれの話題から、
結局、仏道(自由なる人生)は自分で歩むものというワタシの見解を書きました。
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で、そうすると、所謂、仏法僧の三宝とかって、何でしょうねというハナシになると思うのですが、
お坊さま方がダルマの伝統を2,600年守ってきたことの価値はやはり途轍もないものがあると思います。
それはある程度、仏縁があって、それなりに触れて、そして感じるものだと思うのですが、
つまり、フツーに安閑とやっていてもあまりその価値とは遭遇しないようにも思います。
私もけっこう積極的に、ここはいいな!と思ったお寺様にご祈願をお願いし、仏様の入ったお札を頂戴して家にお祀りしていますから
実際にはお坊様方に何かとお世話なっているほうです(一応、依存していないつもりで🍵)。
そういうダルマの価値を受け取るために、良き縁を持てたら幸せだと思います。
そういう場合、縁ある善知識というのはブッダの代理人のようなものじゃないかなと思いますね。
そのあたりは人生は逆説的なところがあるとおもうのだけども、やはり"ひとり我が道を歩む"という心が出来てきて、
それから本当のご縁がやってくるんじゃないでしょうか。
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その"ひとり"というのが、
極めて深遠なところまで含んだ、もっと言えば、"人間という自分"の範疇だけではなくて、
それでいて、日常の背景としての幸福であるところの誰かということだと思います。