自営なり、あるいは人を使って経営をやってゆく人は、やはり、お金というものについて考えることになります。
お金というのはやはり突き詰めてゆくと因縁と祝福のひとつの見える化だと思う。
そういう意味でいうと、波羅蜜というのは高次の作法ですから、(つまりヘリオの作法と思うわけで)
昨夕は改めて、いつもお世話になっているお店様を通じて、困難な渦中のさなかの、とある国へ布施波羅蜜を少しばかり実践しました。
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組織における勤め人というのは、推命学などで説明されているように、自分の天命にダイレクトに向き合わない代わりに、"寄らば大樹の陰"で済ませるため、
その犠牲として、天の力を受け取るプロセスを上位者に渡して(売って)しまうわけです。
(この見方とは別に、組織で少しずつ成長し、おおむね人生それでゆくタイプの人もいますが。)
忌憚なく言えば、"大人"の生き方ではなく、ある意味学生の続きのような、何かに所属し守られているところがあるかも知れません。
現代の勤め人として、組織上で偉くなっても、それは古人の曰う意味あいで"偉くなった"とは言えないこともありうるかも、ですね。
(なかには立派な方もおられますが、人生の多様なファクターゆえでしょう。でも勤め人は勤め人であって、"人物"はあまりいない世界です。)
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つまり、天に委ねるという世界は、この世的な安泰システムに"守られる側でやっている"幻想のなかで開かれることはなかなか難しいように思います。
ふつうの戦後日本人にとっては神仏よりも組織のほうが分かりやすいですし(笑)
そういう意味では、日本のいわゆる会社社会のパワーが明白に衰退局面に入って来ているのは(インバウンドですごく痛感しますネ)
"これからの未来を見る人たち"にとって、厳しい側面ではあるのだけども、実のところは良いことなのだと思います。
どうにもならなくなってこそ、高次のものを求めるようになってゆくと思う。
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仏道にしても神道にしても、その本当の目指すところは、過去の因縁自我の造っている世界というのも(コツコツ実践して、やがては)まるまるひっくり返し、
"天の国"をこの実人生において実現するということだと思います。
そのような本当に期するところがないと人生ヨロシクずっと寝ているという感じでしょうか。悪夢と思えるかどうか大事ですが(笑)
そのためには、縁ある法をコツコツやって清めることと、波羅蜜(高次の、拡張した自己からの人生運営)というこの二つ、
色々とあれこれやったりしてきましたが、基本的にはこれに尽きるんじゃないかなという気がしますね。
京都に帰ってきて車中で出会った広告。まさに人間の中に無始からあって積み重ねた何かだけが問題だと思う。