昨日、推命学のほうで、家の宗派を継続する意味を述べている人もおられるということにちょっと触れたのですが、
そういう話は、ある観点での意味を捉えていつつも、別の観点もありうることは前提にしておくことが大事だと思います。
自由、伝統、個人、家、過去、未来など。
自分が素直に、自然にあることが出来る感覚が、大事なポイントだと見ていいと思う。
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実に不思議なご縁から仲良くさせて頂いている…といいますか、色々と私や家のことでお世話を頂いていますご住職さまがおられまして、
ご祈祷、お加持の名手として知られておられる方です。(本当に得難いご縁で有難いです)
雑談してますと、お護摩ひとつにしても実践されている方それぞれ、全然違いますね、という話題になりました。
最近、わたし自身、そういう体験をしまして。
もちろん火を焚くとか、護摩木とか般若心経など読誦とか、そういう基本要素は同じですが、人と場によって、そこで行われるコトのクオリティがユニークに立ち上がってきて
それぞれの場で受け取るものはだいぶ違うんだなぁ、という気づきです。
いくつか廻ってみることも良いことだと思います。
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さて、縁あって、最近、我が家に大黒天様、お地蔵様、鎮宅神(妙見)様をお招きしました。
お招きして、早ければ一日、二日ぐらいで、我が家のエネルギーと合流しまして、我が家ふうのご神仏になられる感じがあります。
ちょっとほっこりというか愛らしくというか、自然体になります。
そういうあたりのご神仏の意識というのはなかなかに不思議で深い世界だと思うのですが、
本当のところは、"わたしという宇宙"のなかに曼荼羅の各諸尊(神仏)がおられるように感じています。
(そういう捉え方は、別に不遜ということではなくて、本来、仏教の見方とはそういうものです。)